一家3世代が通院する歯科クリニック

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院長のひととなり

01.小年時代はどんなお子様でしたか?

昭和37年4月27日に、静岡県清水市で生まれました。その後、父の転勤で四国の今治や東京で5歳くらいまでを過ごし6歳から大阪へ移り住みました。幼稚園から小学校まではどんなことにも好奇心が旺盛で、どんなものにでも興味を示す活発な子供でした。小さい頃から昆虫や爬虫類、熱帯魚、動物などの生き物を飼うことが好きでした。小学校3年生のときカブトムシを採りに真っ暗な森の中に一人で入っていったこともある、勇気ある子供でした。人の体にも興味があり、小学生の頃からお医者さんに憧れていて、通っていた病院の看護婦さんに、「僕は大きくなったら、お医者さんになるんだ!」などと話していたそうです。

02.歯科医師を志そうと思った理由ときっかけは?

幼稚園から高校までを大阪のPL学園で過ごしました。卒業後、2年間浪人し大阪薬科大学薬学部に進学。4年で卒業し薬剤師免許を取得しましたが医者になる夢を捨てきれず、そこからさらに1年間浪人して勉強し、北海道大学歯学部に合格することができました。
思い返せば、ほんとにその1年間は背水の陣で後がなかったので、必死に勉強しました。
そのときに歯医者を目指すことになったきっかけとなるエピソードをご紹介します!

私が中3のときに祖父が83歳で亡くなりました。お葬式も終わり祖母のいる家にお参りに行ったところ、「真道君、こんなものが出てきたよ。」と言って一つの封筒を持ってきてくれました。
その中には何が入っていたと思いますか?
なんと1本の抜けた奥歯が入っていたのです!1枚の手紙と共に…。そこには、「私の歯よ。今までよく私を支えてくれた…。どうもありがとう…。」と内容ははっきり覚えていませんが、自分の歯に対する感謝の気持ちが綴られていました。私はこれを読んで、祖父は小さいものにも感謝の気持ちを忘れない人なんだなぁ、と感動したことを覚えています。
しかしそのときは自分が歯医者になるなんて夢にも思いませんでした。中学時代は英語が好きだったため、医者になるか英語の通訳にでもなって身を立てていこうかと思っていました。高校時代は部活はせず、受験勉強に追われる毎日でした。現役での合格は難しく、2浪して大阪薬科大学に入学しましたが、薬剤師免許取得後にもう1年だけ勉強しよう、それでダメなら諦めようと思って勉強しました。今考えたら、この1年は自分の一生のうちで一番勉強した時期かもしれません。すべてを捨てて勉強に打ち込みました。祖父が亡き後、叔父から「おじいちゃんのことを想ってお祈りしていたら、願い事はかなえてもらえるよ。」と言われていたので、今まで大切にしてこなかった神様に対する気持ちや、祈る気持ち、信仰心を大切にしながら勉強しました。
受験勉強も追い込みの秋頃のことでした。毎日のように祖父にお祈りしていました。すると…

『真道、お前は歯学部へ行きなさい!』

というメッセージを感じたのです。そのときなぜか素直に、「ああそうか、俺は歯学部に行けばいいんだ」と思い、歯学部志望に変更し、北海道大学歯学部を再受験しました。試験はあまりできませんでしたが、幸運にも合格し25歳で大学生になることができました。これもひとえに祖父の見えない力が導いてくれたからに他なりません。そして、私を温かく見守って再受験を許してくれた父・母のお陰であると、本当に感謝しています。
今になって考えると、歯医者は天職でした。祖父の導きで歯医者になって本当によかったと思っています。

03.歯学部時代はどんな学生時代でしたか?

北大歯学部に合格し、これから楽しい大学生活が送れると思いきや、1年生の夏休みのことです。
750CCのバイクで峠を走っているときにスリップして転倒、左下腿開放骨折し救急車で札幌の病院に運ばれ、6か月間の入院を余儀なくされました。4回の手術を経て、装具という義足を付けながらも普通の生活ができるようになりました。6か月間入退院を繰り返しましたが、この間にたいへん多くの方々にお世話になり、親戚のいない新天地札幌でたくさんの人達の温かさを感じ、感謝の心が生まれました。
今まで、“自分が頑張っている” “自分が自分が” と思っていましたが、“自分だけの力ではなく周りの人たちの支えがあってこその自分なのだ”、ということを肌身で感じることができました。この事故は神様が私に与えてくれたありがたい試練でありプレゼントであり、今となって考えれば自分にとって大切なことを教えていただいた貴重な経験だったと思っています。

大学時代はクラス代表をさせていただき、クラスメイトのサポートをさせていただきました。
クラブ活動は「歯科医療研究会」に属し、保育園や幼稚園を周って歯科保健活動を行うボランティアサークルに属していました。積丹の古平町をフィールドに夏休みを中心に活動。歯磨きの大切さを劇などを通じて子供たちに伝えていました。
この経験が、先日行ったミャンマー孤児院での歯科保健ボランティア活動に繋がっていると思っています。

04.研修医時代の楽しい話 苦労話

大学時代は遊びながらも勉強はしていましたので、国家試験は合格し念願の歯科医師免許は取得できました。でもそれはひとつの通過点でしかありません。ここからが歯科医師としての始まりでした。
国家試験終了時は知識の量は多いのですが、まだ技術と経験がありません。
私は歯学部5年生のときに今の妻と学生結婚したこともあり、卒後1年目は大学に残らず、札幌市内の北二条歯科院長二俣先生のクリニックにお世話になりました。技術の素晴らしい先生で、1年目の私に治療に対する基本的な考え方、歯科医師としての心構えなど大切なことをしっかり教えてくださりました。1年目は何もわからず、院長先生や患者様の対応、スタッフとの関係に悩み、辛いこともありましたが、この経験は今思うととても有り難い経験でした。

辛かった1年目でしたが、嬉しいこともありました。
治療が満足にできない分、患者様とのコミュニケーションは張り切って行っていたある日、女性の患者様から私宛に手紙が届きました。「歯医者さんに来るたびにビクビクしていましたが、堂先生が優しく言葉をかけてくれたおかげで、安心して治療を受けることができました…。」と。
私も研修の身で悩んでいましたので、お手紙をいただいて暗闇の中に一筋の光が見えたような感じでした。このお手紙のお陰で、「研修中の身ながら私も人の役に立っているんだな、修行を積んでもっと人のお役に立てる歯科医師になろう!」と、やる気を新たにしました。
お手紙をくれた患者様には今でも本当に感謝しています。

2年目からは医療法人美西会に勤務し、1年間は美唄と苫小牧で勤務、2年目から知床にある斜里町の分院長を任せていただきました。他の先生は遠いところなので誰も行きたがらない中、理事長の笹川先生からご依頼をいただき、自分にとってもいいチャンスだと思い快く引き受けさせていただきました。斜里の医院を立ち上げから任せてもらい、約2年半勤務させていただきました。このときの経験が今もどう歯科クリニックで活きているので、任せていただいた笹川先生には今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

05.開業した理由は?

私はもともと独立心が強く、開業して自分で病院を作っていくのが夢でした。若い頃から組織とかチームとかは苦手で、スポーツなどもマラソン・登山・スキー・スケート・ゴルフ・釣りなど、1人でプレーするスポーツが好きでした。
勤務していても自分がやりたい治療が自由にできない、研修会にも自由に参加できない。もっと自由に動ける環境にして、歯科医師としてもっと幅を広げて成長していきたい。と感じていました。
開業すれば金銭面でももっと家族を楽にしてあげられるのではないか。
私を歯医者にしてくれた両親に、もっと楽をさせてあげられるかもしれない。もっと親孝行ができるかもしれない。と思う気持ちもありました。
独立してたくさん勉強して、患者様に自分が学んだ知識や身につけた技術を提供し、多くの患者様に喜んでもらいたい、世のため人のためにお役に立てる人間になりたいと思いました。

06.開業後のやりがいや苦労話

たくさんの夢を持ち、平成10年12月17日に札幌市北区百合が原で開業しました。
はじめはユニット3台、歯科衛生士1名、歯科助手1名、私の妻のスタッフ3名でスタートしました。新規の開業だったため初めのころは患者様が少なかったですが、徐々に増えていきました。
患者様の喜ぶ顔や感謝の言葉を聞いて、開業したことが本当に嬉しい毎日でした。

しかし、開業後は診療以外のことで苦労しました。歯科医師は大学では経営に関することは一切学ぶ機会はありません。開業したら、歯科医師・経営者・マネージャーの3役を1人ですべて行わなくてはいけないのです。治療を行っているだけでは、医院経営は成り立ちません。
開業したら、勤務医のときの苦労から逃れられるだろう、自分だけなのだから前よりもっと自由に働けるだろう、診療をちゃんとやっていればスタッフはついてくるだろう、という思いは開業後5年でもろくも崩れ去りました…。

4人のスタッフが全員退職という辛い経験をし、これは相手ではなく自分に問題があるのではないかと考え始めました。そこから私の自己改革が始まったのです。
朝の経営者モーニングセミナーへの参加、各種自己啓発セミナーへの参加、コミュニケーションの勉強、コーチング認定コーチ資格の取得、読書、など様々な学びから自分の人間性を高めようと努力しました。歯科の知識や技術以外にあり方・考え方・人間性を高めていかないと、医療人として、人として、スタッフを指導する院長として、世のため人のため地域に貢献することはできないと考えました。
今までなかった医院理念を作ったり、朝礼やミーティングを始めたりしたのもこのときからでした。自分が変わっていけばスタッフ・病院全体の雰囲気も良くなり、少しづつ病院が良くなっていくのを感じました。
治療では矯正治療やインプラントを勉強し、自分が学んだ技術が患者様に喜んでもらえることが嬉しく、歯科医師としてやりがいを感じる日々でした。

07.病院移転の理由

開業して15年経ち、市の道路拡張工事にかかってしまい病院を移転せざるを得なくなりました。
移転する場所を探しましたが、はじめは全く見つからず、患者様からは「先生、遠くに行かないでくださいね!」などと頼まれていました。本当に困っていたとき、幸運にも現在の土地を取得することができたのです。このとき、私は目に見えない力に導かれていることを感じました。
『今より病院を大きく発展させ、もっと地域の人々のお役に立てる病院にしなさい!』と言われているように感じ、規模を拡大。もっと多くの患者様を受け入れてあげられるようにして、スタッフやドクターの雇用も増やし、今以上に地域社会や歯科医療に貢献できるように、との決意で移転を決意しました。

08.5年後の目標や今後のビジョン

歯科医院で100年企業を目標に、地域の人たちに愛されるクリニックを目指しています。
患者様に満足していただける医療を行うには、そこで働くスタッフが生き生きと輝いて、明るく楽しそうに働いていることが大切だと思っています。
そのために働く環境を整えること、スタッフ各人が共通の認識を持ち、心を一つにしてお互いに助け合い尊重し合える関係を築くこと。
これからは女性が一生働く時代です。女性が働きやすいように、子育てしながらでも働ける環境を整えることはどの企業も取り組んでいくべき課題でしょう。これから歯科医療に関わる若い人たちが希望をもって働ける場を増やしていきたいです。
訪問診療を充実させる。本院のユニットを増設・増築したり分院を作ることで若者の雇用を増やす。
子育てスタッフが安心して働けるように、診療所に併設した保育園を作る。
歯科の技術・知識はもちろんのこと、医療人として、日本人として、そして人間として、しっかりした考え方や使命感・情熱を持った歯科医師・歯科衛生士・歯科技工士・歯科助手を育てる学校を作る。

経歴

資格・研修会

所属

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